最近の後輩女子社員の言動にムカついています! 

告白者: 美穂 25歳 総合職OL

「私が社内の人間関係の中で何がムカつくかといったら、新人をはじめ、
後輩の女子社員のタメ口言動です。

新入社員として配属されたばかりの頃は、先輩女性に対しては、きちんと
敬語で話してくれますが、ちょっと慣れてくると、すぐにタメ口になってくる
ところです。

朝、出社してきた時の挨拶も『おはようございます』ではなく『おはよう』なの
です。

何か言っても、受け答えは、『ああ、そうなんだ』なんて返答してきたりします。

『あんたは私の同期でも友達でもないんだよっ!』と内心毒づき、怒りが沸き、
とてもイライラし、ストレスがたまってしまいます。

でも、もうちょっと上の年次の女性、例えば30歳ぐらいのベテラン女性に対しては
ちゃっかりと敬語で話してたりしているところが、よけい腹立たしいのです。

人事は新入社員教育でいったい何を教えているのでしょうか。

たしかに私たちが入社した時の教育もお客様である取引先の方への電話対応
や、来客の際の接客対応などは学びましたが、社内の人間関係のマナーはあまり
教えていなかったと記憶しています。

ただ、例え同期でも後輩でも男性社員に対しては、社内では『君』づけではなく、
『さん』づけで呼ぶようには教わりました。

でも、今の新人(といっても4月になれば、また新入社員が入ってきますが)は
部内で、大きな声で、○○く〜んなんて呼んだりするコもいます。

またいつも遅刻ギリギリでやってきて、定時になればさっさと帰ってしまうコも
います。

本来、上司である課長クラスの男性がそのへんをしっかり注意すべきなのでしょうが、
うちの部にいる4人の課長は、ドラマの喜多善男のようなお人良しタイプというか、
女の子を怒れない人ばかりです。

そのため、女の子はよけい増長してしまうようです。

喜多善男と言えば、あのドラマの中で吉高由里子演じる、宵町しのぶという落ち目
の元アイドルタレントが出てきますが、あんなアンニュイな感じで派手でわがままで、
扱いが難しいコもいます。

いったい、採用の時にどういった基準で採っているんだと言いたくなりますが、
実はうちの会社は女子社員の9割は何らかの縁故採用で、お嬢さん育ちの
人ばかりなのです。

以前は10割、つまり縁故採用しかしていなかったそうですが。

かくいう私も強いコネがあって、入社したクチです。

ただ、社会人として、最低限のマナーと常識だけは、身につけてもらいたいと
思っています。

今年の新人は、きちんと私が教育しようと思っています。」


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バブルでうかれていた世代も今は・・・ 

告白者: 潤 41歳 某社 課長職

「私はバブル期の1989年入社のサラリーマンです。

早いもので、もうあれから19年になろうとしています。

新入社員当時は仲のいい同期の連中と『金曜会』を結成して、毎週、
金曜日の夜は当時、旬だった青山のディスコ、キング&クイーンで
踊ったものです。

お立ち台でパンティーを見せながら踊るというスタイルがマスコミでも
随分、取り上げられました。

パンストのセンターラインの食い込みが何とも言えませんでしたね。ええ。

当時は、日本経済も超強気の好景気で、私は新入社員ながら、10万円
以上もするイタリアンブランドのソフトスーツで決めていました。

とんねるずの『ねるとん』をもじったツーショットパーティーもあちこちで
開催され、そんなパーテイーに参加しては、知り合った女の子とセックス
したものでした。

社内では女性社員に対しては、あくまでも紳士的に振る舞い、高感度は
高かったと思います。

その後、ご存知のようにバブル崩壊。

給料の昇給率も鈍化し、30歳で社内結婚。

相手、つまり今の妻は3年後輩で私のサブをしていた女性です。

それ以来、スーツは紳士服のコナカの安いものを着て、すっかり、つつま
しやかなサラリーマンになってしまっていました。

30代半ばから、肥満し、髪の毛もすっかり薄くなり、20代の頃の面影は
まったくなくなり、社内の若い女性社員から見ても、風采の上がらない
おじさんに見えていることだと思います。

不思議なもので年齢を経るごとに、若い女性に対して執着心のようなものが
出てきて、今のミニスカートで脚のきれいなコを見ると何とも言えない欲望
が体の奥から突き上げてきます。

『若い女性』と表現している自分が既に『おやじ化』していて、何とも情けない
気がしますが、精神的には20代の頃、つまり女の子と遊びまくっていた頃と
ちっとも変わってはいないと思っています。

仕事上では、部下の20代の女性をいかにうまく扱うかに悩んでしまうことも
あります。

私たちが新人だった頃とは、まったく価値観も異なり、わがままに育っている
コが多いので、業務を任せる際も変に気を遣ってしまったりします。

人事を担当している同期のやつには、見た目は二の次でいいから、素直で
扱いやすい女性を採用してくれとたのんでいますが、なかなかそうもいきません。

何せ、うちの社の女性の7割はコネがらみの入社だからです。

まぁ、これは公然の秘密なのですが・・・。」


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暴れ者だった団塊の世代も今は・・・ 

告白者: 幸平 59歳 会社役員

「私は1948年、昭和23年生まれの典型的な団塊の世代です。

私の場合は運良く、私の一族の経営する同族会社の経営陣の一角に入って
いますので、60歳で定年ということはなく、このまま取締役であと数年は社に
いれそうです。

今の若い世代は少子化で大学全入と言われていますが、私たちのような戦後
のベビーブーマーは、1学年に十数クラスもあり、すさまじい競争にさらされた
世代で受験の時は有名大学の倍率は数十倍でした。
『受験地獄』と言われ始めていた頃の世代です。

その頃から大学受験に失敗すれば浪人するのは当たり前で、私も代々木
ゼミナールに通ったクチです。

時代はベトナム戦争が泥沼化し、米国では反戦運動が盛んになり、この日本
でも学園紛争真っ盛りで予備校の中にも『全共闘』(全学共闘会議)が結成され、
デモに参加する者もいました。

私は何とか、1968年(昭和43年)の4月に難関を突破して大学に入学。

入学試験当日は正門でヘルメット姿のセクトの活動家がずらっと並び、マイクで
独特の口調でアジっていて、すぐそばで機動隊も待機していて、とても物々しい
ものでした。

その年から翌年にかけて学生運動もピークで、全国の大学でストが敢行され、
日大全共闘、東大全共闘は全国にその名を馳せたものです。

私は自分の大学でヘゲモニー(覇権)を握っている、ある反代々木系、つまり、
新左翼系セクトのシンパとなり、いっぱしの活動家を気取っていました。

大学の勉強はほとんどせず、下宿ではマルクスやレーニン、吉本隆明、埴谷雄高
の本や朝日ジャーナル、少年マガジンばかり読んでいました。
私も『あしたのジョー』の熱狂的ファンでした。

学内にいる時は、いつもセクトのヘルメットを被り、顔にはタオルを巻き、サングラス
姿で闊歩し、集会やデモの時はタルキ(角材)や旗竿、打ち砕いた縁石の石などで
武装。

学生大会では対立セクトに罵声を浴びせながら、ありあまるエネルギーを発散
させていました。

その1968年の10月21日、つまり10.21の国際反戦デーには新宿で大規模な
デモで暴れ、騒乱罪が適用されました。

私も新宿のデモ隊の中にいました。

同日、中央大に集結し、出発したブントは丸太をかついで防衛庁に突入。

全都的に学生、労働者が暴れまわった1日でした。

私も機動隊の激しい催涙ガス攻撃や放水を浴びながらも、闘いました。

そして三里塚闘争、東大闘争にも参加。

翌年、1969年には、東大全共闘は敗北しましたが、東大の入試を中止に
追い込みました。

その後、学内で対立セクトや日共系との激しいヘゲモニー闘争が激化。

しかし、1970年に入ると、権力との闘争も表向きは終焉し、シラケという言葉
がはやったものです。

それからはセクト間の内ゲバも激化しました。

私が活動していた4年間は大学は学生によるストライキか、大学当局による
ロックアウトで、まともに授業を受けたことはあまりなく、そのまま、卒業を
迎えてしまいました。

私のように学生運動に身を投じた大半の者は既成の権威や権力にはノン
と言い続けたい反骨精神の旺盛な者ばかりで、特に私のような人間は
普通のサラリーマンは絶対に不向きだと思っていました。

私の世代は長髪で汚いジーンズ姿が主流で、モラルというものはまったくなく、
マナーも悪く、当時の大人たちからは、二言めには『今の若いやつらは・・・!』
とあきれられていたものです。

私と同年代に俳優の故、松田優作氏がいますが、(1949年生まれ)、
彼が『太陽にほえろ!』でジーパン刑事として登場した時は心から応援した
ものです。

今は彼の息子の松田龍平クンと松田翔太クンが活躍していますが龍平クンの
方には父の面影を見ることができます。

さて、そんな私ですが、卒業前に父親が他界。

卒業が迫っていても卒業後の身の振り方を決めていなかった私はわざと留年
して大学に残ろうと思っていましたが、そうもいかなくなりました。

そんな私に父の兄、つまり私の伯父が経営している会社に就職するよう強く
すすめられました。

伯父には子供がなく、小さい頃から私を自分の子供のようにかわいがってくれて
いたのです。

とは言っても、大学でもほとんど勉強などしていないわけですし、会社組織の
ことや、会社の仕事などまったくわからず、自信などはありませんでした。

資本主義を否定していた自分に反して資本主義の真っ只中に身を置くことに
苦痛も覚えたわけです。

そして1972年4月、私は伯父の会社に入社し、サラリーマン生活が始まりました。

社員数は1,500人程度の中堅企業で、当時はまだ株式は公開してなく、未上場
でした。

長髪を短く切り、きれいに分けてスーツスタイルになった時、何とも言えない
敗北感を感じたものです。

伯父は社長でしたが、私の縁故採用のこと、一族であるということも社内では極秘
でしたから、直属の上司からは、随分、いじめられ、しごかれたものです。

『最近の若いやつは使えない』というのが口癖でした。

その後、28歳の時に大学時代の同級生と結婚し、息子ができたのを期に、この仕事
でかんばる決意をしました。

小市民的になってしまった自分自身に自己嫌悪を感じていた時期もありましたが、
結婚後はそんなことも考えなくなりました。

そんな私も入社15年目の38歳の時には営業の課で課長に昇格し、46歳の時に
部長になりました。

仕事も波に乗り、仕切る立場となると精神的に余裕と自信が出てくるのか、
40歳の時には、14歳年下の部下の女性と2年間に渡る不倫を経験。

それ以降は不倫はありませんが、年齢を経るごとに、妻以外の女性とは縁遠く
なってきました。

バブル期の新人女性はとにかく派手で、言うことを聞かず、とても扱いにくかった
ものです。

ここ数年は不景気で採用も手控えていたのですが、昨年あたりから、また新人を
たくさん採用しています。

まったく世代も価値観も異なるわけで、私たち役員の秘書として働いてもらって
いる女性の扱いにも、とても気を遣っています。

ただ、私が学生の頃の同世代の女の子たちの、生意気でマナーもクソもなかった
コたちから比べれば、淑女ですかね(笑)。

実は私の妻も活動家だったのですが、彼女があの当時、よく吐いてた『あんたさぁー
なに日和ってんだよ!しっかりやんなよ!ゲバだよ、ゲバ!』というセリフを今でも
よく思いだします。」


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松田優作最後のトーク 1


松田優作最後のトーク 2



松田優作最後のトーク 3



俺たちの勲章 (オープニング)



あしたのジョー (オープニング 唄 尾藤イサオ)



尾藤イサオ 悲しき願い





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